今回は『人生が整うマウンティング大全』と『話が通じない相手と話をする方法――哲学者が教える不可能を可能にする対話術』を紹介しながら、コミュニケーションにおいて「話を聞く」ことの大切さを確認しました。
書誌情報などは、以下のメモページからリンクを辿ってご覧ください。
相互ケアとしてのマウンティング受容
ある程度、社会的な素養(これが具体的に何を意味するのかはわかりませんが)を持っている人にしてみれば、マウンティングするのは基本的にダサい行いです。教養主義、あるいは啓蒙思想的な立場であれば、虚栄心にまみれた態度であり、ぜひとも修正しなければならない行いだとされるでしょう。
ようは、そんな風に人の上に立とうとする態度をやめて、お互いにフラットに話し合おうではないか。それがこうした考え方のベースになっているでしょうし、基本的には私もそう思います。
一方で、あまりにもその理念が強くなりすぎると、その「ゲーム」にうまく乗れない人を排斥することにもなりかねない危険性があります。それはそのまま、自分たちが気に入らない主義主張の人たちを「差別主義者」と切り捨てることが可能な”最強の道具”になってしまう可能性にもつながっていきます。
『人生が整うマウンティング大全』は、そうした理路とは違った違ったアプローチを持ちます。マウンティングしてしまうのは人間的に(あるいは動物的に)どうしようもないので、それを受け入れてお互いにマウンティングを受容しようではないか。これは人の「弱さ」を受け入れる態度であり、ケア的な行いだとも言えるでしょう。
その関係性では、単にフラットに横に並んでいるのではなく、あるときは上に立とうとするが、別のときでは下にいることを許容するという変化を持つ(平均としての)フラットさが醸成されるでしょう。
別段こうした話が本書で展開されているわけですが、「マウンティングはよくない」という態度自体が、一種のマウンティングになりかねない状態において、別の仕方でコミュニケートを考えるきっかけを与えてくれた一冊でした。
僕たちは「聞く訓練」をしていない
『話が通じない相手と話をする方法』では、めちゃくちゃ具体的なノウハウが難易度別に紹介されていて、本編ではそのごく一部、入門的内容を紹介しました。
で、「話がうまくなりたい」と思うなら、喋るテクニックよりも先にこの聞く技術・態度を身につけたほうがいいです。本当にそれくらい、私たちは聞く訓練をしてきていません。
たまたま相手が聞く訓練をしてきている人ならば、「会話」(conversation)は成り立ちますが、そうでないと一方通行の伝令が二人いるだけの状態になって、もはや会話とも呼べない何かになってしまいます。それくらい、私たちは相手の話を聞いていません。そのことは、カフェとかで繰り広げられる雑談を耳にすればよくわかります(あまり礼儀はよくありませんが)。
しかし逆に言うと、日常のやりとりは相手の言うことを真剣に聞いていなくても成立するものです。そこでは相手と場や空間を共有し、敵対的な意志を持っていないという最低限のことさえ表明すれば、あとは何を言ってもOKなのです。私たち人間はとてもファジーに意思疎通している。
だからこそ、きちんと聞くことができないのです。聞かなくても大丈夫だから、真剣に訓練されることがない。でもって、そうした日常的な「やりとり」が会話のすべてだと思ってしまう。
今この文章も、かなり伝令的になっているな〜という感じがふつふつと湧いてきました。そんな感じでついつい伝令的になってしまう(あるいはマウンティングしようとしてしまう)人間性を前提として受け入れて、じゃあどうしたらいいのかを考え、対策をとることが「人間的」な振るまいなのだろうなと思います。
一つの指摘
本編の中で、ごりゅごさんが「それって前回の話とつながりますよね。つまり何かを学ぶときの姿勢と同じ」という旨の指摘をしてくださりました。この指摘が非常に心に残って、今もまだそのことについて考えています。
何かを学習するときには、興味・好奇心を持つことがまず大切であり、人の話を真剣に聞く場合もそれが重要である。
これは会話というものが「お互いに学び合う場」(共同的な学習)であるとして捉えるならば必然的に生まれる共通性ではあるでしょう。
それを踏まえた上で、学習とは学習対象との「コミュニケーションである」という逆向きの方向からも話が組み立てられそうです。
そうすると、一見異なる二つの要素(学習とコミュニケーション)を下位項目に含む、一つ上の階層について考えられることができるかもしれません。実にワクワクしてきますね。
こんな感じで、私がごりゅごさんに本の内容を紹介しているのに、学んでいるのは(変化しているのは)私の考えの方、というのが開かれた会話の面白さです。
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