今回は、永田希さんの『再読こそが創造的な読書術である』を取り上げます。
書誌情報
著者
永田希ながた・のぞみ
著述家、書評家。1979年、アメリカ合衆国コネチカット州生まれ。書評サイト「Book News」主宰。著書に『積読こそが完全な読書術である』(イースト・プレス)、『書物と貨幣の五千年史』(集英社新書)。
出版社
筑摩書房
出版日
2023/3/20
目次
第一章 再読で「自分の時間」を生きる
第二章 本を読むことは困難である
第三章 ネットワークとテラフォーミング
第四章 再読だけが創造的な読書術である
第五章 創造的になることは孤独になることである
ネットワークとテラフォーミング
本書で語られる内容をごく端的に、しかも自己啓発的に言えば「再読することで自分を作ろう」という話ですが、これではあまりにも乱暴すぎるでしょう。本書ではもっと繊細なメッセージが綴られています。
まず、現代を生きる私たちは情報の濁流に飲み込まれやすい環境にあります。これは単に情報の量が多いだけではなく、人の注意を惹きつけ、ある行動へと動員させる力を持った情報に取り囲まれている、ということです。メディアはメッセージでもありマッサージでもあるので、一つの方向に過剰に力がかかっている状態だと言えるでしょう。
すると自分がどんな方向に進みたいのか、といった認識がかき乱されます。にもかかわらず、どこかに向かって進んでしまうのですから非常に厄介な状態だと言えるでしょう。結果、「自分が求めているのはこういうことではなかった」という残念感が生じます。「自分の時間」を消失した状態です。
そうなると、その「自分の時間」を回復させることが急務だと感じられるようになるわけですが、注意したいのは「さあ、自分の時間を回復しましょう」というメッセージもまたマッサージになり、人を誘因してしまうことです。妙なたとえになりますが、独裁をふるう王様を退場させて、別の独裁する王様を据えたのと同じなのです。「民主主義」のようなそれまでとはまったく違うプロセスが確立されたわけではありません。大雑把に言えば別に何も変わっていないのです。
倉下の印象ですが、本書ではそうしたメッセージの取り扱いが非常に慎重に行われています。著者は大切なことを伝えようとしているが、しかしそれを「通りの良い形」ではなく、何か別種の変換を通さないと受容できないような形で伝えている。そんな印象です。
で、本題に戻るとそうした「自分の時間」の回復のために再読という営みが一定の役割を果たすことが語られるわけですが、ポイントは本書において創造がゼロからのクリエーションではなく既存の要素の再配置として位置づけられている点です。
再びよくある自己啓発的メッセージでは「明日から本当の自分の人生を生きる」的なことが語られていて、あたかもそこでは今までの自分とまったく自分がクリエーションされる雰囲気があるわけですが、もちろんそんな魔法のようなことが簡単に実現するわけではありません。できることは、今の自分を少しだけ変えていくことだけです。「今の自分」を捨てることなく、時間をかけて変化させていくこと。
「自分の時間」を回復させるとは、そのようなプロセスを受容することでしょう。つまり、まったく新しい「自分」の創造に駆り立てられるのではなく、今そこにある「自分」について知り、新しいものを取り込んで、少しばかりの差異を生じさせること。その結果を吟味し気に入ったら採用し、そうでなければ抑制する。そうした行為全体に時間を使っていくこと。それこそが「自分の時間」の回復であり、情報の濁流に対して別の軸を立てるために必要なことだと感じます。
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一冊の本は誰かが書いたものであり、その本を読む行為は──直接的ではないにせよ──その著者との対話を試みている営みだと言えます。しかし一方では、その本のどこにも「著者」なる存在はいません。書かれた文章を読み取り(≒読み解き)、メッセージをくみ出すのは読者その人です。よって、本を読むことは半分では著者との対話でありながら、もう半分では自分自身との対話でもあるのです。
だからこそ、本を読むこと、読み込んでいくことは自分を知ることにつながり、自分を「創造」することにつながります。
と、すでに倉下バイアスでかなり強めのメッセージに置き換えられていますが、きっと皆さんが本書を読んだ印象はまた違ったものになるでしょう。そう、その差異こそが「自分」の源泉なのです。
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