今回は『「学び」がわからなくなったときに読む本』を取り上げました。
7つの対談が収められたすべての章が面白いので、今回は各章から話題をピックアップし、ごりゅごさんと話し合いながら進めるといういつもと違った形を採用しております。
おそらくこのポッドキャストを好きな方ならば、「学び」がたくさんある本だと思います。
あらためて「学び」について
というような感じで、私たちは日常的に「学び」という言葉を使っています。上記のように「学びがある」という形が多いでしょうか。
その言葉のニュアンスを探るなら、「有益な知見が得られた。示唆に富む内容だった」あたりでしょうか。素晴らしい体験です。
でも、おそらくそのままでは知識が増えただけです。ネットワーク的に言えば、どこかのノードに子どものノードが一つか二つ増えただけ。ネットワーク全体の組み換えなどは起きていないでしょう。
言い換えれば、すでに自分が所有している文脈に引きつけて情報を理解した、ということです。
それ自体はまったく問題ありません。問題は、そこからどうするのか、です。
関連する情報も探りまくる
似たような問題を考えまくる
実際に自分でやってみまくる
何らかの心情に突き動かされて、そういうことをやってみる。時間と手間をかけてみる。他の人からみたら、「なんでそんなに熱心にやっているの?」と思われる(あるいはあきれられる)ことをやってみる。
そうすると、単に知識がインクリメントされるのとは違った経験がやってきます。考え方や物の見方そのものが変質してくるのです。『勉強の哲学』は、その一次的な変化を「キモくなる」と呼びました。実際そのとおりなのです。
知識が増えただけなら蘊蓄を披露する回数が増えるだけですが、考え方や物の見方が変わったら、それまでうまく調和していた場(≒人のネットワーク)から外れることになります。
こういう風に記述すると、ちょっと怖さを感じてしまうかもしれません。それは自然な反応でしょう。やすやすとできることではない。それが自然にできるレアな人もいるでしょうが、自分が属する場からはじかれてしまうことに深いレベルで恐怖を感じることは多いかと思います。
だからこそ「場」が大切なのだ、と私は思います。
「最近、こういうことをに興味を持っているんです」
「へぇ〜、面白いですね」
という何気ないやりとりが行われる場は、「キモくなる怖さ」を緩和してくれるように思います。
もちろんその場はスペシフィックな、あるいなアドホックな場であることが望ましいです。言い換えれば、その場がその人の人生そのものにはならないこと。一時的・限定的にそこにいくけども、そこから帰っていく別の場もある。生活の場。そのような往還が、二次的な変化を呼び込みます。
そのような往還を繰り返す中で、自分自身を変えながら、同時により自分自身であり続けること。つまり、訂正可能性(BC106参照)が示す開きと綴じの可能性がそこにあるわけです。
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