取り上げた本
今回は主題の本に加えて、本の中で紹介されている以下の4冊を挙げながら「本を読むこと」について二人で話をしてみました。
あと、以下の二冊にも軽く触れております。
完全な読書など存在しない
どうせなら本はちゃんと読みたい、という気持ちが私たちにはある。「真面目」に読書しようとすればするほどその気持ちは強まる。
しかし、「ちゃんと本を読む」とは具体的にどういうことだろうかと考えてみると、途端にあやふやゾーンに突入してしまう。ざっと速読することが「ちゃんとしていない」のはわかるにせよ、一字一句飛ばすことなく読み終えたらそれで「ちゃんとしている」と言えるのは心ともない。なんといっても、一ヶ月もすればその内容をすっかり忘れているかもしれないからだ。
本書は、その「ちゃんと本を読まなければ」という呪縛のような思い込みに反抗を企てる。ちゃんと本を読む必要はないし、なんならちゃんと読んでいない方がいいことすらある、と。積読バンザイ。
さまざまな読書法・読書術の書籍をひも解きながら、著者は積読の良さを組み立てていく。加えて、現代における積読の有用性をも指摘する。情報過多な時代だからこそ、本を積み上げろ、と。
ばかばかしいように聞こえるかもしれない。あるいは、一種の強がりのような響きもある。しかし、そこにはたしかに真実がある。何もしなくても情報が流れ込んでくる時代においては、自らの手で壁を作り上げる必要があるのだ。
村上春樹は、とあるスピーチで壁に挟まれた卵の話をした。そこでの壁は、巨大なシステムを表すものであった。当然それは、可能であれば打破されるべき存在である。しかし、私たちが作ろうとしている壁はそんなに強固な(あるいはソリッドな)ものではない。
本書では「ビオトープ的積読環境」という概念が提出されているが、私たちが作る壁/囲いは、強固なシステムというよりも、ところどころに穴の空いた、フラジャイルな存在である。風を通し、水が流れ、生き物が行き来する領域である。完全ではなく、不完全な領域。
それを「自分の手」で作ることが、肝要なのである。
なぜなら、自分の手で作ったものであれば、自分の手で作り替えていけるからだ。それはつまり──著者のもう一冊の言葉を借りれば──、その壁を「ブラックボックス」にはしない、ということである。手作りの壁。意志を持った壁作り。それこそが私たちを自由と不自由の狭間に導いてくれる。
ちゃんとしていなくてよい
「その本について何かを言うならば、ちゃんと読んでおきたい」という気持ちは真摯なものであり、また誠実さの一つの現れであろう。しかし、それがあまりにも強くなり、視野を狭めると困った事態になる。つまり、「ちゃんと」読んでいない人間は何一つ発言すべきではないし、「ちゃんと」読んだ自分は正しいことを言っている(そうでない意見は間違っている)、といった態度に陥ってしまうわけだ。
その上、あらゆる読書が不完全なものとなると、誰も本について言及できなくなる。はたしてそれは楽しい(あるいは豊かな)世界の在り方であろうか。
本についての「話題」が起こったとき、会話に参加しようとする人間を殺伐と疎外してしまうよりは、その話題が盛り上がるようにうまく立ち回るのが別の形での誠実さかもしれない。
さいごに
私自身は、なるべく頭から終わりまで、一字一句飛ばさず読書するタイプである。その本の著者が冒頭で好きな順番で読めばいいとか、これがわかっている人間は飛ばしてよいと書いてあってすら、極力まっすぐに(シーケンスに)読書をしていく。それはたぶん梅棹忠夫の姿勢に影響されているからだろう。著者は自分の言いたいことをうまく伝えるために、適切な順番を考えて文章を書いている。だから、読むほうもその「お膳立て」に乗っかっていく。そんな気分だ。
しかしながら、本の読み方は多様である。唯一の正解など存在しない。だからこそ、読書は面白いわけだ。
さて、皆さんは「本を読むこと」をどのように捉えているだろうか。どんな定義をあたえ、どんな分類をし、どんなノウハウをそこに充てるだろうか。よければお聞かせいただきたい。
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