今回は三冊の本を紹介しました。
書誌情報はAmazonなどで確認してもらうとして、話の要旨をまとめておきます。
導入
なぜ「退屈」に注目するのか?
「どう生きるのか」とは、「どう時間を使うのか」にパラフレーズできる。そして現代では「有意義なこと」に時間を使ったほうが言い、という風潮がある。でも、はたして本当にそうなのだろうか。そんな天の邪鬼な観点から「退屈」に注目する。
一つの前提として、この社会は「資本主義」にどっぷり浸かっており、それ以外の社会をうまく想像できなくなっている、という点がある。ITツールやネットメディアは私たちに「環境」を提供してくれているが、それが「正しい」のか(あるいは適切なものなのか)は、判然としない。むしろ、あまり良くないのではないか、という懸念も多い。
その観点も含めて、退屈の哲学を用いて考えていきたい。
『退屈とポスト・トゥルース SNSに搾取されないための哲学 (集英社新書)』
簡単にまとめれば、これまでの「退屈の哲学」を振り返りながら、現代に特有の「退屈」状況を考察し、その問題点を指摘する一冊。
ポイントは、退屈にいくつかの区分を設定したこと。
哲学の起源としての退屈
精神分析的退屈
政治的退屈
「創造的」退屈
ネオリベラル的退屈
一番最後の」「ネオリベラル的退屈」は、著者が本書で設定した用語。その中核をなすのが「インターフェース」という概念。IT用語としては一般的だが、著者は「入り口(しかないもの)」という含意で用いている。人を誘い込む入り口でありながら、そこからはどこにもいくことができない。人はその場所に留まり続けることになる。
TwitterやYouTubeなどでも、特に何かを見たいわけではないのに、延々とスクロールしているときがある。そうしたとき、私たちはネオリベラル的退屈にはまりこんでいる。
その退屈は、実際は「手持ちぶさた」なわけではない。何かをしているし、ちょっと興奮もしている(ドーパミンが出ている)。しかし、深い満足感も納得感もそこにはなく、むしろ少しのいらだちや妬みが心に忍び込んでくる。それを解消するために、再び新しい投稿を求めてスクロールしたり、いらないものをスワイプで消したりしていく。
まさに現代的な「退屈」の在り方であり、そういう退屈に入り込んでいるとき、「退屈とは何か」「自分とは何か」「人生とは何か」という(哲学的な)問いに人は向き合うことがない。その意味でも、「どこにも出口がない」退屈である。
『暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)』
今回の中核をなす本で、面白いのでぜひ読んでいただきたい。
著者はさまざまな考察を繰り広げるが、一番のポイントはハイデッガーの退屈論を引き受けながらも、それをさらに展開させている部分。ただし、そこに至るまでに「退屈」に関する前提をいくつか押さえておく必要がある。
人類は最初移動していたが、途中から定住するようになった
移動する生活では毎日新しい風景に出会い、認知的処理を行わなければならなかったが、定住生活ではそれが不要になった
つまり、定住生活では認知エネルギーが余ってしまう→退屈が感じられる
私たちは「退屈」を気晴らしでやり過ごそうとする
気晴らしは熱中できるものであれば何でも構わない(苦しいものであっても人は選択する)
むしろ、楽しいものを選ぶためには訓練された能力が必要かもしれない
かつての有閑階級はそうした能力を持っていた(暇はあるが退屈ではない生き方があった)
そうした能力を持たない人は、苦しいものを選ぶしかなくなる
ただ、どちらにせよどんな気晴らしも効果がない根源的な退屈がある
「なんとなく退屈だ」がそれだ
それは根源的であるがゆえに気晴らしでやり過ごすことはできず、私たちはその問いに直面せざるを得なくなる
そこから哲学的な思考が始まる
だから、そうした退屈を通り抜けて決断せよ、それが人間が自由であることだとハイデッガーは言った
しかし、著者はその点を問題視した上で、さらに退屈についての論を深めていく
ここからの展開が非常にスリリングである。環世界と人間の自由の話も面白いので通読されたし。
『何もしない』
時間の関係であまり取り上げられなかったが、本書も非常に面白く、「奇妙」な一冊。
「何もしない」というタイトルであるが、本当に何もしないことを(つまりサボタージュを)進めているわけではない。
ある種の「効果的」な行為を行わない、というくらいのニュアンス。結局のところ「効果的」とは、ある基準で測定可能な行為であり、そういう単純な行為は容易に資本主義にとらわれてしまう。だからこそ、「何もしない」。意義ある行為をしないことで、結果的に意義ある行為にたどり着く、というちょっと禅的な感じもある。
「生産性」ばかりを求めると、私たちは失敗する。考え方が単純化し、二項対立にとらわれてしまうからだ。だから、そこから距離をとる必要がある。
資本主義に投げやりになるのではなく、かといってそのゲームに従順になるわけでもない。資本主義の中にいながらも、その外を想像できるようになるために。
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