今回は、マーク・クーケルバーク の『自己啓発の罠:AIに心を支配されないために』を取り上げました。
日本の危ない「自己啓発セミナー」についてではなく、もっと"健全"な自己発展が持つ危険性について論じた一冊です。
書誌情報
著者:マーク・クーケルバーク
ウィーン大学哲学部メディア・技術哲学分野教授。バーミンガム大学博士。イギリス・デモンフォート大学コンピューターと社会的責任研究センター非常勤教授も兼務。1975年ベルギー生れ。国際技術哲学会会長、ヨーロッパ委員会の人工知能に関する高度専門家会議委員なども歴任。AIやロボットに関する倫理学、哲学の第一人者
邦訳されている他の著作
翻訳者:田畑暁生
『ブラックボックス化する社会──金融と情報を支配する隠されたアルゴリズム』
『監視文化の誕生 社会に監視される時代から、ひとびとが進んで監視する時代へ』
出版社:青土社
出版日:2022/10/26
目次:
1. 現象
自己啓発の強制
2. 歴史
自己知や完全性を求めた古代の哲学者、聖職者、人文主義者
3. 社会
近代の自己執着 ルソーからヒップスター実存主義まで
4. 政治経済
ウィルネス資本主義の下での自己馴致と搾取
5. テクノロジー
カテゴリー化、測定、数値化、強化、もしくは、なぜAIは私たちについて私たち自身より知っているのか
6. 解決策(第一部)
関係性自己と社会変化
7. 解決策(第二部)
私たちについて異なった物語を語るテクノロジー
倉下のScrapboxページ
◇ブックカタリストBC051用のメモ - 倉下忠憲の発想工房
概要
原題は『Self-Improvement: Technologies of the Soul in the Age of Artificial Intelligence』。直訳すれば「自己改善:人工知能時代における魂のテクノロジー」。著者の専門を考えると、AIと私たちの関係が論じられるのだろうと予想されるが、実際は西洋思想をさかのぼり、そこにある「自己啓発」的な要素を現代までの射程で捉え、しかしそこにある差異を取り出そうとする試みが展開されていく。
まずタイトルから。「Self-Improvement」は、「自己改善」が日本語としてはふさわしいだろう。邦訳の「自己啓発」とは少しニュアンスが違う。自己啓発は、「人間として高い段階に至ろうとする試み」であり、そこには明白に「何が高い段階であるか」という審級が内在化されている。自己啓発は、英語では「Self-Enlightenment」であり、enlightは啓発を意味しつつ、それはlightの語感の通りに「照らす」という含意がある。無知蒙昧な闇に置かれた状態(プラトンの洞窟のメタファー)に、光を照らして真理へと至る。そういったニュアンスにおいては、真理=何が正しいのか、という絶対的な基準が先駆的に存在している。
それに対して、「Self-Improvement」≒自己改善には、そのような絶対的な規範はない。改善は、今ある悪いところを少し直す、くらいのニュアンスである。何か絶対的に正しいものに向かっていく行為ではないわけだ。しかしながら、それが「(今の状態よりも)より良くする」というスタンスで行われる限り、自己啓発が持つ問題と同じ構造が立ち現れる。
その意味で、本書において「自己啓発」と呼ばれているものは、感覚的に「自己改善」と呼びうるようなごく些細なものも含まれていると考えてよい。アプリを使って精神を整え、ストレスの多い職場に立ち向かうといった行為ですらも本書がまなざしを注ぐ「自己啓発」であるわけだ。
もう一点タイトルに関して、原題は「罠」に相当する言葉はない。一方で内容を読めば、本書に"自己啓発"への批判が込められていることは間違いない。ここは難しいところだ。本書は全体的に「自己啓発」という営みそのものを断絶させようとはしていない。新しい形の「自己啓発」のスタイルを模索し、そこにこれまでとは別の仕方でAI≒テクノロジーとの関係性を紡いでいけないかと検討している。そのような大局的な視点だからこそ、著者は「Self-Improvement」とつけたのだろう。
一方で、仮に日本語のタイトルで「自己啓発」という本が出たら、上記のような内容だとはとても思われないだろう。よって、フックとして「自己啓発の罠」という邦訳の選択は絶妙だと言える。ただし著者の主張を汲まずにタイトルだけからこの本が自己啓発を抹消しようとしている本だと理解しない方がよい。その点は注意が必要だろう。
さて、長くなってしまったが、本書そのものはあまり長くない。この手の本にしては珍しくソフトカバーだし、150ページ前後の内容である。思想や哲学を扱っているが晦渋な文章は出てこない。いくつかの予備知識がないとわかりにくい箇所はあるだろうが、それでも著者の主張ははっきり汲み取れる。簡単にそれをまとめれば以下のようになる。
古代ギリシャの時代からヘレニズム思想的なものには全般的に「個人とその内面」に注力する傾向があった。その傾向は近代化と共に強まり、個人主義の跋扈とテクノロジーの強力化と共に「自己啓発ビジネス」へと発展した。かつては人文主義者は「印刷された本」というテクノロジーを使い、人々を啓蒙しようと(あるいは、啓蒙を目指す人々の数を増やそうと)してきたが、現代のインターネットテクノロジーはそうした人文主義的なものと基本的なマインドセットの点で違っている。それは自己を知り、自己を愛するというあり方ではなく、「他人にとっての自分や、他人からどう見られるか」に強い関心が注がれている。それはますます利己的な自己を強めるばかりである。そのような"自己啓発"は現代のテクノロジーの力を借り、さらに強まっている。そこでは、私たち以上に私たちのことを知るAIが登場する。言い換えれば、私たちはもうそれ以上自分について知る必要がない。すべてAIが設定し、なすべきことと決めたアプローチに沿って"改善"を進めていけばいい。これは古代ギリシャ時代に掲げられた「汝自身を知れ」とはまったく異なる(むしろ逆の)アプローチである。私たちは、AIの檻に入りながら、自分のことを何も知らないままに万能感と物足りなさという両極する要素を抱えたまま生きていくことになる。はたしてその未来は、私たちが望む未来なのであろうか。
上記のような視点において、著者は問題提起している。
自己を扱う「テクノロジー」についてはフーコーが、対抗文化が文化に飲み込まれていくのは『反逆の神話』が、AIに完全に依託した人間がどうなるのかは『PSYCHO-PASS』シリーズが、自分が扱う自分の記録については拙著『すべてはノートからはじまる あなたの人生をひらく記録術』がそれぞれ参考になるだろう。日本における自己啓発受容については、牧野智和の『日常に侵入する自己啓発』や大澤絢子の『「修養」の日本近代』が面白い。
というように、短い本でありながらも、さまざまな事柄に枝葉が伸びる内容になっている。「自分を高めていくこと」を正しいこと、まっとうなことだと信じて疑わない人ほど、本書はささるのではないだろうか。
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